2015年02月26日

水魚の想い

胎児と母体の関係は水と魚である。
水(= 居場所)の中で生きる魚、羊水の中で生きる胎児だろう。
羊水は母の胎内にあり、母は居場所の提供者。
胎児は母に依存し、時満ちて依存から脱し、社会性が顕れる。
すなわち、居場所は仮の宿。
仮の宿を終の棲家としては大人にならず依存()であろう。
私たち生命体に具わる依存関係・社会性はこのように観える。

群(= 共同体) : 家庭・団体・国家・国際社会・学校・職場etc…
群とは何だろうか? 共同体と己とのい関係は?

母親は胎児の居場所を用意してあげるいなる
即ち、他者の誰かの居場所を用意するあなたは大人でしょう。
居場所たる家庭を誰かのために用意するあなたは大人。
居場所たる群(= 共同体)を誰かのために用意する大人のあなた。
一人のために己を居場所とした釈尊・キリスト・あなたは大人。
使命あって、国家や世界を背負い立つ大人のあなたかも知れない。
ともあれ、誰かの居場所を用意してあげる準備に余念のない大人。

旧訳にはカインやイシマエルを野に放って命を救った例が見える。
この場合は野を居場所としたカインやイシマエルと言ってよい。
居場所はどこに用意すべきだろうか?
誰かに命を奪われる恐れがない場所を居場所とすべきだろう。
人と人と・・お互いに怨みを残していなければ幸いです。

(なお、)
哲学は一人立ちすること。群れて安心、だが群れ流れては詰らない。
哲学の意義は流されないよう自立することにある。
哲学は感じ・考え・感じ・考えの作業を繰り返す。



2015年02月17日

正・邪・善・悪

今、世界中を揺るがしているイスラム国問題の根っ子に何があるのか・・・ 「カルト(セクト)」シリーズで観てきたように先進国は政治も司法も邪悪な思想に憑りつかれて正常な思考・哲学は社会から失われたことを明かした。日本もそうだがアメリカ・フランス・イギリスも厳しい状況にあることは同じで、この狂った思想を叱りつけ目覚めさせる勇気ある人々が立上らなければ狂った政治家や法曹が自力で立ち直ることは期待できない。 なにせ狂った者の常として「おれは狂っていない」と言うに決まっている。

政治家や法曹などの知識層が狂い、邪悪がまかり通る社会に人間らしい善い思考は到底期待できない。魂を善く導く思想によって人間集団は野獣の生き方に訣別できたのであり、善き思想は具体的には西洋における旧訳の哲学があり、東洋においては仏教思想がその役割りを果たしてきたことはロジックに則って判断するとき疑う余地がないのは明らかです。ロジックに則った科学的な検証に耐えなければ世界宗教と云えず、科学的検証に耐えない思想や宗教はカルト(セクト)以外の何ものでもない。

カルトは正邪善悪に暗いゆえに民衆に道理を示すことができず、それで過去において説明や言葉をいつも曖昧に濁してきたのであって、そうした結果が現状の世界を作ったのであり、各国の社会の有りのままの姿に表れているのであり、すなわち、カルトこそは人間同士の憎悪・不公平・社会に渦巻く不満を生んだ元凶と云うしかなくて、しかも、カルトはドコかにあるものでなく、政治家・法曹など身近な知識層の心を食いやぶり巣食っているのを見ると、狡い卑しい傲慢な人間性を好餌としていることが分る。

この邪悪な政治家や法曹などに従って甘い汁を吸う側に付こうとする者の家族は正直に暮さず、真っ当に成長できず、人を守ろうとする心を養わず、人間らしい心を育てられず、善い思想を知らず、結局、どうして人間味に満ちた家庭を築ける筈があるだろうか? この者らは社会に不満を持ち、人を不幸にしながら悪しく生きるゆえに結局、人間に害をなし、人間を敵とする悪しき存在。道徳観なく・野獣の如く我がままに暮す者たちを待っているのは害し害され・殺し殺される偽りの人間関係。身から出た錆。

ハテ、今の世界を観るに、殺し返せと叫ぶ国家首脳が多いのは何故だろう? あなたのご家庭には人間らしい温かい心を満たしてほしいものです。
 

2015年02月15日

カルト(セクト) ⑧

あなたは旧訳を善く読む信仰の人・正義の人だろうか?
それとも心を食い破られて悪しく読むカルトの人・邪義の人だろうか?


人は生きなければならない。生きることは正のベクトルです。ここで正のベクトルは正義に通じる。エデンの園でアダムとイヴは生きることをヤハウェに教わりながら育った。教育は段階を経るごとに高度化していく。赤子は乳を探し・口に含み・飲み・腹を満たして、只々生きる姿勢が正しいのである。乳を頼りに只々生きる赤子であり、腹が朽ちては眠り、目覚め、乳を飲んで腹が朽ちたら眠る行為を繰返す赤子です。生きるか死ぬかの分かれ道で赤子は生を選りて生きることが正しい選択であって、生きてこそ、その後の可能性を得られる訳で、死んでしまってはヤハウェに対する罪を作るゆえに不正義になる。ヤハウェはエデンの園でアダムとイヴに「生きること = 正義」を躾けた。

仏法では慈父・悲母の愛、慈悲を説いて母の存在を重視するところだが、旧訳ではエデンの園に父なるヤハウェだけが現われて母は現われない。これは「生の正義」に特化して述べたものと理解すべきだろう。赤子には善も悪もなく、生きて生きて生き抜くことを心身に憶えこまさなければならない。即ち、人が最初に憶える智恵が「正義の法 = 生きること」であると旧約も教える。懐く赤子は可愛く想えるがそれは大人の勝手(な思い込み)であり、赤子の立場はそうでなく、正義の法を只々実践している赤子であり、生きるために乳を欲しがる存在なのです。これは赤子が親に懐いていると云う以前に、生きられる環境を得た赤子がその環境を大事にしていると考えるのが健康的でしょう。

親の善さよりも乳の善さを求めたからといって、そんな赤子を疎ましく感じる親は居てはならず、善悪の価値観が育っていない赤子を裁いてならず憎んでも嫌ってもならないのはお分かりだろうか? 今は善悪を知らない赤子も順調に成長したときには親に掛けた数々の苦労に想いを馳せることが出来る筈なのです。例えばイエスの場合で云えば、母マリアが父ヨセフと共に路頭をさ迷いながらイエスを産み育て、数々の苦労を重ねるなかでイエスを護ってきたことを想像するとき、イエスは「親なら子を護るのは当然だ」と考える筈なく、母親に対する己の罪の意識「自分としては心ならずであっても親に苦労を掛けて申し訳なかった」という気持ちを抱いた優しい心根のイエスだったろう。

その優しいイエスが親に苦労を掛けた罪滅ぼしに死んで詫びようと考える訳なく、死んで詫びようなどという狂った想いはヤハウェの信仰に無縁であって、ヤハウェに従ったイエスが死を以って罪を償うことは有り得ない。死を以って償う思想はゆえにカルト思想から生れた狂信者のモノなのです。旧訳のドコを読んだらヤハウェが人の死を悦んだと理解できるだろうか? ゆえにキリスト教にイエスは存在しないことは明白となる。生は正義であり、即ち、人の死を願うのは邪義となる。この邪義ほど覇道の者に都合の良い思想はない。政敵や宿敵に罪を着せることで償わせる名目で殺せる思想を支配下に置く悪王は人類を皆殺しにしても地獄に堕ちないという妄想を抱かせる事もできる。

西洋では聖書に片手を置いて誓うスタイルが知識層・上流階級層に流行して久しい。信仰心がある人は聖書に誓って嘘を言えないが、司法も国会も平然と聖書の前で嘘をついている現状をあなたはどう感じるだろうか? 最早、なにも感じないカルトのあなたか知れないね。聖書のどこに人を殺しなさいと書いてあるだろうか? 人殺しのカルトだけが聖書に背いて人を殺して平気なのであり、この人たちはキリストを己の下に観ているのであり、宗教を政治の下に観ているのは明らかではないか。こうした実態を見ながらキリスト教団は政治家を叱ることもせず、政治の下に保護されて特権を貪っていると理解する私は真っ当な感覚なのです。いやいや、カルトは人間をトコトン腐らせる。



シリーズ「カルト(セクト)」はこれで一旦置くことにします



2015年02月09日

カルト(セクト) ⑦

★ゴルゴダで凶器に掛かってイエスは殺された
㋐ユダヤ属州総督ピラトの思惑どおりに
事態は運んだ
㋑ガリラヤの領主ヘロデの思惑どおりに
事態は運んだ
㋒愚かな兵隊(民衆)たちの歪んだ気分は紛らせられた


㋒兵隊(民衆)の罪は伏され、その身代りとしてイエスは罪を引受けたのか? それでも構わないが罪が伏された根拠は何か? また彼らの罪が赦されないとするならその根拠は何か?
この正当な根拠が示されなければイエスは教会に入られず、カルトが支配する場所を嫌う結果、友たる仏法者を住まいとすることになる。民衆がカルトを見切るとき、イエスは慰められて皆の元へ帰ることが出来るだろう。

さて、
ヘロデ領主はユダヤ王として認められたいが人の心を力で奪うことは出来ない。ユダヤ王は政治権力と信仰の権威を合せ持つ地位であり、領主の座を力で得たヘロデは信仰のリーダーでなく信頼の対象でも有り得ない。真のユダヤ王・メシアはローマ皇帝に対しても決して卑屈に媚びることのない権威に満ちた存在であり、ゆえにユダヤ王の座を欲しがるヘロデはローマ皇帝に謀反の心を抱く存在と見做されるべきで、ピラトの敵とも見做される。

こうした権力の力関係に照し合せるとき、ヘロデ王の後継者がヘロデ領主の地位しか認められなかった事情が見えるようだ。ピラドに対してヘロデ領主はイエスをユダヤ王と嘲り罵ることで「ユダヤ教のメシアは大した存在でない」と証明して見せた。ピラドはユダヤ教を警戒していたが、目の前のヘロデ領主も兵隊たちもメシアを恐れていないし、メシアとされるイエスはすこしも勇敢な戦士に見えず、ただただ臆病な羊のように扱われている。

ユダヤ教のラビたちはといえば、イエスをメシアと決して認めなかったろうし、権力に威され蹴散らされて這う這うの体で逃げ惑うしかなかったと考えられよう。この状況に至ってピラト総督はユダヤ属州の政治も信仰も全てを支配下に置いたと理解できた筈で、ピラトは己に従属するイエスの教えとされる「キリスト教」を積極的に認め、布教を許すことでユダヤの民には力を見せつける事ができ、ローマ皇帝に対しては恭順の姿勢を示したことに他ならない。

いやいや、キリスト教徒のあなたがキリスト教は決してピラトに屈していないと言うのは構わない。私は、ピラトはキリスト教とキリスト教徒を屈服させたという実績を以ってローマ皇帝に報告できたと言える状況を作ることに成功した、また当時の社会もピラトの思惑どおりになったと理解できていたと言っているのであって、あなたのお考えはあなたのお考えで好いのですが、キリスト教の信者・ピラトのアリノママをキリスト教団は受入れたという事実は覆せないでしょう。

当時のキリスト教団がピラトを否定していたならキリスト教団はローマ皇帝に跪くことなく毅然と対応したという歴史を作れたであろうし、そうしなかった教団は信仰の上に政治権力を認めた事実は事実であり、否定できない重い事実であるというしかなく、(政治の)法が、神の法の上に置かれたことで全てを支配する王権の思想を西洋に広め固めたことになる。伝統的に政治が宗教を支配する西洋であること、これでお分かりでしょう。ゆえにキリスト教の国はカルト思想なのです。

カルトの国で、イエスの魂が復活するのは難しく、自力だけでは最早どうにもならないのではなかろうか?



カルト(セクト) ⑥

イエスの時代、ユダヤ属州にはローマから派遣された総督もいて、ローマは総督と王(や領主)を使って間接的にユダヤの民を統治していた。これは総督と王の力の均衡を図ることでローマ皇帝に対する謀反・反逆を抑える仕組みになっている。すなわち、イエス処刑のときのユダヤ属州総督ピラトはローマ皇帝とヘロデ領主とユダヤ人たちに気を使わなければならない立場だった。ヘロデ領主とユダヤ人たちは信頼関係で結ばれず、そのどちらかに肩入れしてはピラトの地位に危険が及ぶ理屈である。(因みに、最終的にピラトは住民からシリア総督に直訴され、罷免されている。)

イエスの裁判の行方はピラト・ヘロデ領主・ユダヤ人の三者の思惑が絡みあって決まることになる。陳情を繰り返すユダヤ人をピラトは無視できない。これは先ずヘロデ領主の所にイエスを送って判断させてみるのが無難だとなる。そしてイエスはヘロデによる尋問を受ける。ヘロデはイエスを侮辱し、ヘロデに合せて調子者の兵たちもイエスを侮辱する。派手な服を着せられてピラトのもとに送り返されるイエス。この動きが主流と観られる中でイエスを罪に問うことはユダヤ人の意思をピラトが尊重したことになる。そしてヘロデ領主はイエスがユダヤ王と見做されることを妨げることができた。

独断でイエスを裁いてデメリットが返るとき、ババ抜きの理屈がまかり通る。ババは誰かに回すモノだから、ピラトはヘロデ領主にババのカード(イエス)を回した。ババ抜きでババを歓迎する人はいない訳で、手元に回ってきた大嫌いなババ(イエス)をヘロデ領主が忌々しげに扱うのは分るだろ? ヘロデに罵られ侮辱され小突きまわされ汚されて、それでも抵抗しないイエスは兵隊たちに嘲笑を浴びる、その理屈は、あなたがリトル・トリーの作者フォレスト・カーターを嘲笑したのと同じだからね、真実を観ようとしない兵たちはイエスを嘲ったが、カーターを嗤ったあなたは件の兵隊だ。

カーターを真っ先に嗤ったのはメディアかも知れないが、メディアのバラエティ番組をみて嗤う脳みその無いカーター批判であり、イエス殺しの片棒を担いだあなたと考えてみては如何だろうか? あなたは真実を観ずに誰かの思惑に乗せられて踊らされていないか? 誰かの思惑・・・ピラトはローマ皇帝に認められたい思惑、ヘロデ領主はユダヤ王の地位を手に入れたい思惑、あなた(兵隊)は面白くない日常から気を紛らしていたい思惑だろう? イエスはあなた(兵隊)の幸せを祈り、あなたはイエスを呪う構図から、あなたに信仰心はあるだろうか?西洋社会にキリスト教はあるのか?

ゴルゴダでイエスを裁いているようで、真実はあなたが裁かれているのです。
あなたはカルト(セクト)でない…だろうか? これで少しはお分かりになりますか?